本ブログでは、日浦祐次氏の過去のブログ記事を掲載させて頂いております。日浦氏にとっては過去のものであり、現在のご自身と、運営する瞑想教室「サハスラーラ新宿」にとっては不要とのお考えから全文削除されたそうです。管理人が、過去に日浦氏のブログにより救われた経験を持つため、後に続く真理を求める人のために是非とも!と、再掲載をお願いいたしましたところ快くご承諾下さいました。この場を借りて、日浦祐次氏に厚く御礼申し上げます。 Copyright © Yuuji Hiura all rights reserved.
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その実像は実物大に拡大した後、やがて空間に消える。
どこかへ行くのだろうと思った。
そして、計測できない不確かな時間の中で、
わたしのところへ戻って来るものがあった。
あるものは、わたしの後頭部から入り、
あるものは、オーラの中に入り、
あるものは、 チャクラと思われる部分から体内に入っていた。
体内に入ったからと言って、それらが 固形物として体内に在るわけではない。
憑依霊が形態として人体に憑依するのではないということと似ているようだ。
なんと言う事だろうか、想念が霊的な生き物になるとは!
修験者や魔界の女を観た時よりも、この体験のほうが衝撃であった。
人が思考や感情を抱くとき、
こころの中では、無言の言葉が起こり、
言葉はエーテルの波動を生み出して、
やがて生き物として形態化するようだった。
この体験から考察したことは、
旧約聖書に例えられた「天地創造のドラマ」と同じ原理のように思えた。
というのも、神が六日間をかけて、天と地を造り、
空飛ぶ鳥や地を這う動物を造り、われわれに似せて、
人間を造ろうといった、いわゆる想念による創造の仕組みと同じではないか。
神とは人間の概念であるから、
物質的な宇宙と万象万物を生み出すのは、
それらを投影する原型としては、絶対存在としてのエネルギーが無ければならない。
素材としてのエーテルは、全宇宙の空間に満ち満ちているから、
絶対存在から放たれる想念は、エーテルの振動になり、
非物質と物質の生き物を創造するのだと考えた。
この事は、聖書の天使や聖霊達の働きだけでなく、
われわれ人間もまた無自覚な想念を放つことにより、
天地創造と同じ働きをしている!という事になるだろう。
その生き物は、 永遠に不滅の生き物になるということから、
天地創造のドラマは空想の産物ではないと知った。
現実の人間でさえも知らずに物事や生き物を創造しているという事実は、
それを知らない人が多いだけのことである。
もし、読者が霊的な眼が開かれて、それらを観たとき、
驚きのあまり、腰を抜かすかも知れない。
正直なところ、わたしは、驚きのあまり、
腰が抜けていたのかも知れない。
「想念は霊的な生き物を創る」
腕時計の針は、22 時を廻って、ロウソクを三本消費した。
一晩に一本と考えたのは間違っていた。
このペースだと三日でロウソクが無くなるが、月夜は外に座ればいい。
しかし、五月の山中はひどく寒い。
冷え切った体が硬直して動かないくらいだった。
だから、暖房が欲しいと思った。
コタツに入りたいと思った。
また暖かい風呂に入りたい、タバコを吸いたい、
熱いコーヒーが飲みたい、ご飯を食べたい、
娘たちの顔が見たい、などなど、幾多の欲求が湧いてきた。
この時、物質的なテントも外の暗闇も消えていた。
そこにはただの空間があった。
その空間には、わたしが思ったことの想念や欲求は、
その一つひとつがピンポン玉のような大きさの球になって、
自分の大脳やハートから飛び出したではないか。
あるものは口から飛び出していた。
それは、まるで子供が遊ぶシャボン玉のように沢山の玉が飛んでゆくのだった。
シャボン玉のような透明な球の中には、
ひとつ一つのリアルな立体映像が入っていたではないか。
それらは、想念の立体映像ではなく、
カラーの実像 になる、という事であった。
分かり易く言うなら、
生物に関しては、霊的な生き物になるのだ。
わたしは自分の眼を疑ったが、妄想や幻覚ではないことを知った。
シャボン玉のような球に包まれた中身は、
思考した内容の晩御飯、熱いコーヒー、
タバコなどの単語に関連する立体映像、
また、それらの周囲にある環境を含んでいた。
シャボン玉は、やがて消えてなくなるが、
内部の立体像が実物大に拡大してゆくではないか。
その過程の説明は言葉による表現が難しいが、
思考といい、感情といい、 形体をもつ生き物になってゆくのだ。
このようなことは、恐らく読者は信じないだろうと思うが、
読者を信用させる努力は要らない。
体験の事実を語るだけのことである。
丹沢山中の瞑想修行4
やはり部屋の中での瞑想とは、大きく違うことを実感した。
内省のテーマは、
父と子の関係、生活の改善についてであった。
黒い光球と悪魔、
そして、某開祖の正体についての探求である。
仕事をするのは主に生活のためだ。
その生活は何のためのあるのか。
このように、一つのテーマを掘り下げると、
無数の関わりがあることがハッキリと分かる。
仕事が 忙しいのは会社の都合であり、
自分が同調しているからだ。
研究開発が好きだから、始発電車にのり、
最終電車に乗って帰宅する毎日は、自分の意思である。
自分と仕事の関係に問題は無い。
だが毎晩の残業は、家族とのコミュニュケーションを失う。
生活を犠牲にする仕事は問題だ。
残業をうんと減らし、子供達と遊んでやらなければならない。
残業代をくれない会社だから、残業は激減させることにし、
逆に賃金をあげてもらうように交渉する決意をした。
その要求が通らなければ、会社を辞めよう。
自分の人生が主体であり、会社は従属的なのだから。
何度か坂を転げ落ちながら、ようやく気に入った谷川へ落ち着いた。
荷を降ろしたら16 時を回っていて、もう薄暗い。
選んだ場所は、身体中に鳥肌が立ったから、波動がよくなかった。
おそらく何かが来るのだろう。
そんな環境の中で、これから夜がやってくると思うと、
ひとりで来た事を後悔した。
家の中で考えていたことと、異郷の現地では、 大きなギャップがあったからだ。
恐怖心からだろう野宿せずに地元の民宿に泊まろうか と思ったが、
小さなロウソクの火では、徒歩3時間半の夜道を帰れない。
腹を据えてテントを張った。
やがて丹沢山中の渓谷も真っ暗闇になった。
都心にいては、このような真っ暗闇を体験することは難しいだろう。
小さなテントの中で、小さなロウソクの火を灯すと、
逆に漆黒の闇が鮮明になって、恐怖感も大きくなった。
家では夕食の時間だ。
ここには、 食べるものが無いというのは、一抹の淋しさが襲ってきた。
タバコもコーヒーも持ってこなかったのは、
習慣を打ち破るためとは言え、やはり淋しいと思った。
精神を集中 すべきなのだが、かえって気が散漫になる。
寒さも襲い掛かってきた。
瞑想を始めるまえに、計画書を読み直すと、
無謀とも思える内容が幾つも書かれてあり、
自分の無謀さを認識したのだった。
しかし、もう今さら戻れないのだ。
だから無謀な計画とは、実際的に適切な対応になったと知った。
逃げ場は無いのだから。
最初の夜は、テントの中で瞑想的な内省をした。
呼吸を整えると直ぐに心が安定し、空腹も闇の恐怖も消えた。
深い山中は、都心の喧騒もテレビや人の声も無いから、
自分の思考が驚くほど鮮明になる。
丹沢山中の瞑想修行2
「行け!自己をこえるために丹沢山中へ」
瞑想する場所は、もっとも厳しいと思われる環境を選んだ。
そこは、むかし修験者たちの修行場であると言い、野獣も生息しているという。
刃渡り 15cmの登山ナイフも買い、刃を研いでもらい、それを備えた。
そんな小さな刃物が護身用になるとは思えないが、
それを持ったという事は、生命の危機を守るという
生命に対する愛着があることを改めて自覚した。
それは、家族がいるのだから仕方ないとは言うものの、
本当は命も投げ出して山中瞑想を体験したかった。
可能なら最低でも1ケ月は欲しかった。
都会の雑踏の中や、自宅やアパートの部屋でも瞑想はできるだろう。
そのほうが安全だと分かる。
なぜ、人里を遠く離れた異郷へひとりで行くのか。
危険と恐怖は無いのか。
深い渓谷の夜には、獣や悪魔が現れたらどうするのか。
気が狂ったらどうするのか。
またしても聖霊に頼るのか。
いや、今回の山中瞑想は、命がけの修行なのだ。
聖霊の助けを期待せずに単独修行をやろう。
そう思った。
こんなことを考えて、実行するのは 過去世の体験があって、
今生も山中瞑想を駆り立てるのだ。
駅前からタクシーに乗り、登山口の途中まで行き、
後は徒歩3時間半を掛けて、深い渓谷へと向かった。
事前調査の無い場所にいくのだが、
目指すは瞑想するに相応しい絶景の渓谷であった。
滅多に人が通らない細い林道は、昼でも薄暗く、
草木に覆われていて、道が見えなくなった。
林道を外れて森の中へ入ってゆくと、険しい道の途中、
狸や狐の死骸があった。うっそうとした渓谷は、湿度が高くて昼でも薄暗い。
そこは、 聞いたことも無い不気味な鳥の声?もある異郷であった。