本ブログでは、日浦祐次氏の過去のブログ記事を掲載させて頂いております。日浦氏にとっては過去のものであり、現在のご自身と、運営する瞑想教室「サハスラーラ新宿」にとっては不要とのお考えから全文削除されたそうです。管理人が、過去に日浦氏のブログにより救われた経験を持つため、後に続く真理を求める人のために是非とも!と、再掲載をお願いいたしましたところ快くご承諾下さいました。この場を借りて、日浦祐次氏に厚く御礼申し上げます。 Copyright © Yuuji Hiura all rights reserved.
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昔から宗教はアヘン(ケシの実から作る麻薬)だといわれるとおり、
現代も 同じであると思う。教団は、信者や会員に対し、
「欲望の飴」と「恐怖の鞭」を 使うことによって、教団の経営が維持されている。
欲望の飴は、お布施をすると ご利益がある、
会員を勧誘し増やすと神仏の加護があり、
来世は幸せな転生が約束される など、根拠の無い飴を与える。
ひどい教団になると、講演会場において、
会員の遺産を教団に贈与させて、褒め称えるのだ。
なんともえげつない教祖様だろうか。
盲目の会員信者は、欲望の飴によって、
お金と時間と労力を教団に提供するのだ。
その奉仕が献身だと勘違いしている。
それは、あの世的な見返りを期待する会員の浅ましさも利用されている。
この一例を見ても、そうした教祖達が
仏陀やイエスを語れる器ではないことが、
はっきり分かるはずなのだが。。。
恐怖の鞭とは、病気や不幸の理由は、
信心が足らない、過去世のカルマだ、お布施や献金が足らない、
先生(エセ仏陀や偽キリストの化身という)に祈りなさいなどと脅す。
また仏罰が当たる、 地獄へ落ちる、先祖が浮かばれない、来世は不幸に成るなど、
これも 根拠の無い恐怖心を会員信者に刷り込む。
だから無知なる会員信者は、 より大きな時間と労力とお金をつぎ込むため、
教団は拡大化するのだ。
教団の拡大は、会員信者の間違ったステータスシンボルとして役立つ。
教祖を崇拝するのは、個人崇拝であって、信仰とは言えない。
神や仏、 真理を知るには、自己を知る意外になく、宗教に依存する必要はない。
本当に悟った教祖なら、人間の三体について会員信者に解き明かし、
会員信者を覚醒させることに懸命になるだろう。
仏陀やイエスが弟子に 教えた秘儀を教えるはずだ。
巷の教祖が真の仏陀なら、多くの会員は、すでに阿羅漢(如来と同格)の悟りを開いていなければならない。
また幾多の神通力を会得し、真実の過去世を語れる阿羅漢に達した会員信者が不在なのは、教祖が本物の仏陀では無いという動かぬ証拠であるだろう。
霊狐は霊的な世界観を語り、
さらに聖書にあるような天地創造に関する壮大なドラマの一部も語った。
それは、わたしが中学生の頃、樹木や巨石などが歴史を語ったように、である。
また、かの聖霊が語った天地創造のプロセスも霊狐の説明と同じであった。
そのメカニズムは、先日の丹沢山中において、目撃した ことと説明が変わらなかった。
彼は、動物や人間の想念を正確に読み取り、
幻覚や超能力を与えるのも簡単だと言い、
人に憑依することによって、
その人の 目に黄金色のオーラが観えるように出来るとも言った。
憑依すれば、その人は 超能力を得て、
新興宗教など簡単に作れるとも。
霊狐の話を聞いて、わたしの 霊的な力の源泉が疑わしくなった。
「わたしの霊的視力は、おまえの憑依ゆえのことか」と問えば、
「それは、違う」と言い、 「おまえの霊能力は、過去世からの資質だが、
おまえはまだ真我を悟っていない。なにも分かっていない。」と言う。
なんだか説教されている気もした。
わたしは 真我を悟るという意味さえ知らない。
悟りという言葉も興味はないのだ。
霊狐がいうように、巷には、イエス・キリストの生まれ変わりだ、
仏陀の生まれ変わりだという教祖がいる。
わたしをスカウトした某開祖もまた、
自分を仏陀、イエス・キリストの生まれ変わりだと言っている。
しかし、仏陀の再誕だ と言うのは、教団幹部や教祖の虚言である。
なぜなら、彼等の意識は仏陀では ないのだから。
そうした教祖を信じる信者会員たちは、すでに洗脳される下地が あり、
しかも霊的な視力も無いから、教祖や幹部たちの虚言を信じてしまうのだ。
また、信じることにより、空虚で無力な自己と、偉大さのイメージを演出する。
教祖を自分と重ねて同一化し、自己を安定化するためだろうか。
人によっては、 自己を尊大にしてしまう。
例えば、「わたしは法を知っている。法を知らない 世間の人間より、
わたしは偉大な人間だ」などいう傲慢な意識を抱いてしまう。
まことに宗教とは、心地よい睡眠剤や幻覚剤のような効果を生むものだ。
丹沢山中の瞑想修行29
白銀色の美しい毛に覆われていて、
精悍な顔つきには高い知性が感じられ、威厳が備わっていた。
その霊的な狐は、三次元の物体よりも高密度だから、より精密に観えるのだ。
体毛の一本一本さえも拡大鏡を使ったように、はっきり観えるのだ。
触れると感触があり、体臭や体温も伴った。
霊狐の身体を撫でてみたが、思ったよりも体毛が柔らかい。
心臓はドクドクと脈動していて、まさに生き物であった。
霊狐は、白銀色の毛並みをしていただけではなく、オーラも美しい白銀色であった。
この霊狐は天界からの使いだと分かる。
わたしとの会話を望んでいたので、わたしから彼に問いかけてみた。
「お前は、きれいなオーラを放っている。なぜ、わたしに憑依した?」と。
その霊狐は口をきいた。
「よくぞ私の介入を見破った。これは試験である」
そう答えた霊狐は、いまや天界に住み、
地上の動物を指導的する立場にあるというが、時に人間を救うこともあるといった。
その栄光を得たのは、地上に居るとき「真我」を悟ったからだという。
動物が解脱するとは、意外な話だったが、
インドの聖者ラナマ・マハルシは、動物をこよなく愛したと伝えられているが、
飼っていた牛が真我を悟ったと伝えている。
万物の霊長だと言う煩悩人間よりも
牛や狐が偉いというわけかいな。まいったなあモウ・・・
丹沢山中の瞑想修行28
「白銀の大狐と生命エネルギー」
丹沢山から帰宅した後の瞑想において、
わたしの心中に人を非難する心があることを発見し、その心を解き放った。
その時、わたしの体中から乳白色の高密度な気体が噴き出した。
それが衣類を突き抜けて、体の周囲 30cmくらいの空間に充満した。
この空間は、誰にも備わるオーラと呼ばれる生命のエネルギー場であり、
そのオーラは、エーテル質の電磁的エネルギーである。
人によって、多少の大きさや色彩が異なっているが、
基本的に乳白色か純白であり、大きな卵形をしていて、 全身をすっぽり包んでいる。
このオーラを観ることにより、健康状態や心理状態を大雑把に知ることはできる。
オーラには、様々な色彩があると言う人も居るが、 色彩とは波長の違いであり、
個人の感覚に反映し、主に感情のエネルギー場である。
このため感情が自他のオーラに影響をあたえる。
霊が憑依するとき、超微粒子のエネルギーとして、エーテル体に混入する。
だから、 憑依霊が肩や腰にしがみつくというのは、霊が見えていない人のジョークである。
わたしのオーラに浸透していた気体は、前方に集まり、ゆっくりと凝縮しながら、
やがて、大きな白銀色の毛を持つ狐になった。
それは長さ約 1mの大きなシッポが 2 本もあって、尾は、ゆっくりと揺れていた。
尾を含めると全身 2m くらいあるから、 野生の狐よりも大きな身体であった。
ただの野生の狐ではないことが分かる。
丹沢山中の瞑想修行27
人の目覚めとは、始めに複雑怪奇な人体のシステムを認知しなければならず、
また、こころによっては、こころを観察し、こころを変えることはできない。
このことは、こころというものを理解すれば、分かることだ。
だから、こころを説く宗教では、こころの実体を学ぶことが不可能に近い。
目覚めへ至る道へは、果てしない距離があり、気の遠くなるような意識の高みがあり、
そこへ向かうには、正しい真理の学習と強い忍耐力が求められる。
探求の方法が正しければ、三歳児でも時の無い空間へ入ることが出来るのも事実である。』
講演内容(中略)
自分に目覚めなければ、本当の幸福も見いだせず、
生は空しく過ぎ去り、カルマを残し、その修正に転生する、と言われている。
生きているあいだに、カルマを消す修行法もあるというが、
その前に目覚めなければならない。
だから生を意義あるものにするもののひとつに瞑想があり、
それにより、自分と向かい合うことができる。
その始めは、わたしは何ものか、と問うことから始まり、
五感の感覚反応と思考を越えてゆくメソッドを学ぶことが求められる。
それは、反省という批判的な観念や 後悔の意識ではなく、
思考や感情の元を探求することで、
わたしという幻想からも離れることができるだろう。』
(講演の要約終り)
この講演が終えて後、講演内容を理解した人は皆無だった。
話し方に問題があったのかどうか。。。
某開祖からは、教団の後継者になって欲しいと懇願されたが、
わたしは宗教が好きではないし、自分の霊的力にも関心ないから辞退した。
この教団は現在も実在しているため、その関わりは書かない。
また白隠禅師との関係も割愛した。