本ブログでは、日浦祐次氏の過去のブログ記事を掲載させて頂いております。日浦氏にとっては過去のものであり、現在のご自身と、運営する瞑想教室「サハスラーラ新宿」にとっては不要とのお考えから全文削除されたそうです。管理人が、過去に日浦氏のブログにより救われた経験を持つため、後に続く真理を求める人のために是非とも!と、再掲載をお願いいたしましたところ快くご承諾下さいました。この場を借りて、日浦祐次氏に厚く御礼申し上げます。 Copyright © Yuuji Hiura all rights reserved.
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丹沢山中の瞑想修行26
思考を止めるというのは、早い話が、三次元に限定された意識を、
四次元のエーテル体へ移行しなければならい。
その移行ができるとき、 思考と五感の感覚反応は止まり、
時の無い世界へ入ることができる。
これは、論理的な説明ではなく、事実としか言いようの無い体験なのだ。
諸君の意識が異次元へ移行した場合、
そこで、なにが起こるか、
なにが観えるか試してみることだ。
このような五感を超越させる観察法は、わたしの娘が三歳のとき、直ぐに覚えた。
わたしも小学生の頃、全盲の按摩さんが色彩を観ること、
また耳の鼓膜の破れた人が他人の会話を聞き取ることを見て、
そこから学んだことは、 通常の思考力と五感の限界を超えた現象であると認識して、
五感の反応を越えるよう、カメラのレンズのごとく、ありのままを観察することを自ら学んだ。
その観察ができたからこそ、思考が止まり、
時間が止まり、そこは、 空(くう)の世界が開かれた。
仏陀の教説に関して、「空」と呼ばれた世界には、
あらゆる存在の次元が花開いていることを観る事ができる。
その説明は 不可能に近い。だから竜樹は、「空」と命名しだのだろう。』
『人が自己観察や内省をしようとする時、ネガティブな感情があれば、
ネガティブな霊的エネルギーの介入を観るだろう。
それは、仏教が教えた阿頼耶識の世界であり、また人が言葉を失うほどの知識の宝庫なのだ。
空の世界へ行けば、 あるがままの真理を学ぶことが出来る。
ただし、霊的な現象を求めず、動機も欲求もなくして、
カメラのレンズのような透明無私の意識によって、物事を見るようにしよう。
それが、「あるがまま」を観るという意味なのだ。
つまり、 身体と五感を自分自身だと信じ込む人たちには、
「あるがまま」を語ることは出来ても、
「あるがまま」の観察と認識は出来ない。
講演内容(中略)
丹沢山中の瞑想修行25
『諸君は信仰者だから、神を信じているのだろうか。
しかし、誰もが神を見たことが無いだろうと思う。
事実、人間は神を見ることが出来ないが、
この自然界を通して、神の働きを知ることはできる。
先ず、人体と言うのは肉体のほかにも、
二つかそれ以上の身体を持っている事実を知ることができる。
肉体に同居するそれらの意識体は、肉体を離れても活動することができる。
そこに開かれる霊的な世界こそ、わたし達の生まれ故郷だと体験的に知ることが出来る。
このように、この物質世界を通して現れる複雑な現象、その元を知ることはできる。
三つの身体や実在の世界について、人間は理解できないから、
人や物事を好き嫌いによって、自己的に判断し、非難していないだろうか。
人間の知性では神を知ることが出来ないから無理もないのだが。
しかし、真理というものが、神の働きであるとすれば、
真理を見るための眼差しが必要になる。
それは、どんなに明晰な論理的思考によっても、知ることが出来ない。
何故なら思考は時間に制約されるからである。
思考によっては、時のない実在の世界を知ることは出来ない。
では思考を用いないためには、どうすればいいのか。
五感の反応を止めるとき大脳や思考は静まる。
五感の反応とは、目で見ることや耳で聞くときの意識的な感覚の反応であり、
これらは思考の元であり、異次元を知る道具ではない。
異次元を識別できない五感の感覚、
それを元にした思考や感情は止まらなければ、
時の無い神の働きを知ることが出来ない。
このような五感の反応を完全に沈黙させる必要性は、いくたの宗教も様々に語っている。
心を静めよと。
だが、誰も思考を止める方法を示さないし、
こころを完全に沈黙させる方法論も示さない。
だから誰も思考を止めることは出来ない。
しかし、思考は確かに終わるのだ。
丹沢山中の瞑想修行24
こうした自己イメージの無い眼差しにより、十人、百人の意見から自由になるとき、
そこには、「エゴ」の「わたし」がいない。
だから、時の無い未知なる空間を観るかも知れない。』
『しかし、わたし達の学校教育や現実社会は、人や世界の在り様を分析し、比較し、それぞれを評価することを教えている。既知を非難することによって、 新しい理論やテクノロジーを生み出している。
しかし、新たなテクノロジーが人間を幸福にする保障はなく、自己を目覚めさせることは無い。
競争社会には 差別と不幸をも産み落としている。
わたしたちは、自己の正当性や優位性を満足させるよう教育されてきた。
つまり、比較や競争原理を教わったから、諸君らは、 比較や競争それ自体である。
その意味が分かるだろうか?
比較や競争に巻き込まれる限り、幸福の達成はなく、
また真理の発見は難しい。というか無理だろう。
今日の教育や社会体験により、仕入れた情報や条件付けから
自由になれなければ、幸せを見いだすことが難しい。
自由になるためには、見る対象や観察する対象が何であれ、
そこに主観を入れることなく、
カメラレンズのように、ただ観ることが大切である。
その観察法こそが、万物と「わたし」の 分離感覚を消してくれる。
苦と悲しみを消し去ってくれる。レンズのように記憶や先入観の無い観察が出来るとき、意識は次元を超えるのである。では、どのようにして、先入観ある意識は、カメラレンズのような眼差しを得るのだろう。』
丹沢山中の瞑想修行23
「宗教団体での講演会」
その翌日、知人の宗教団体から、わたしの体験談を講演して欲しいと依頼された。
数日後、某宗教団体にて、2時間の講演を行ったが、
その演題は、「自分とは何か」であった。
講演が始まる直前、なんと、白隠禅師の過去世を持つ人と出会いをしたのは意外だった。
その記憶は、昨日のことのように鮮明だった。
また、2.500 年前、 釈迦が法を説いた時代、その周囲に居た過去世の人たちも沢山いた。
みな昨日も会ったばかりのような懐かしい人たちだった。
ここで、その講演会の要約を語ろうと思う。
講演の要約
『諸君は、諸君が信じる開祖から、わたしの講演を聞くように言われたから、諸君には、すでに諸君の宗教的なイメージがあるに違いない。
しかし、自己イメージは、客観的事実と異なることが理解できるだろうか。
例えば、他人と会話をするとき、自分のなかから湧き起こるのは、ほとんど個人的体験と言う記憶の反応であり、それらは主観である。だから、自分の内面に起こる様々な想念を観察することができる。
しかし、そこには、憶測、断定、好き嫌い、 他者との対立感情、同調、迎合、無関心、恐怖と快楽、時には過去世の記憶も 曖昧ながら生起してくるのである。そうした自己イメージがある限り、実相と言う真実が見えなくなってしまうことを知って欲しい。
わたし達が未知なる真理を学ぶとき、この自己イメージを破棄しなければならないことが理解出来るだろうか。ではどうやって、自己イメージを破棄するのか。
それを例えるなら、10 人が討論している時、諸君は同調も反発せず、しかも 意見や感情を移入することもなく、ただ見ること、ただ聞くことができるだろうか。これは実に難しいことであり、不可能に近いことかも知れない。
しかし、 論争に反応しない精神とは、思考や記憶の反応が起こらない。自己イメージを つくらない。それが出来るだろうか。その状態を例えれば、カメラのレンズは、 ただ光りを通すだけであって、記憶と言う自己イメージを持たない。これは、 当たり前であるが、この当たり前のことを自己観察に用いることが出来るのだ。
丹沢山中の瞑想修行22
九日目の夜、丹沢渓谷に豪雨が降った。
テントの中にも水流があり、寝袋やノートも水に濡れた。
そして、突風がやって来て、あっという間にテントは吹き飛ばされてしまった。
わたしの身体も暗い河原に打ち倒された。
真っ暗闇の中で、冷たい豪雨に叩きつけられている自分。
飛ばされたテント、その他を探し、避難場所を探す懐中電灯を持って来ていない。
霊的な眼だけが 暗闇を見通す道具になり、雨をしのぐような洞穴をようやく探した。
その小さな洞窟は、人がひとり入れるだけの大きさであり、
その洞窟も水が溜まっていたから、体を横たえることが出来なかったが、
叩きつける豪雨と風を防ぐことができた。
五月の山中は寒い。豪雨と激しい風は、更に冷え込みを増した。
なにはともあれ、体の冷えを止めなければならなかった。
中学生の頃、どこから入手したのか記憶に無いが、
白隠禅師の呼吸法をやって、呼吸によって体温を上げる訓練もした。
それを思い出し、小さな洞窟の中で呼吸法を行ったので、やがて寒さは消えた。
おそらく身体からは汗が流れていただろう。
やがて朝が来た。台風は止んでいる。
飛ばされたテント、リュックなどは、 近くの木の枝に留まっていた。
その日は、10 日目の朝だったから山を降りる日だった。
この山中瞑想では、五感を超越する体験、時間を止めること、
想念を映像化する体験、結界の張り方、細胞にコマンドを与える方法、
そして、意識の拡大などを体験したから、 実りが多かった。
師がいなくても、ここまで単独修練が出来たのだから、
自分に「合格」を 言い渡したのだ(笑)
そして、可愛い娘たちに会えると思うと、下山するのも嬉しかった。
この十日間は、なにも食をとらずに川の水だけを飲んでいたが、
身体の衰えは、まったくなかったのにも驚いた。
若さも役立ったに違いないが、来たときと体力が代わらないのは、 水の力では無い。
エーテル・エネルギーを食べることを体験したからだと思った。
丹沢山中から帰宅する途中、コンビニに立ち寄った。
とくに食材が並ぶショーケースには、なぜか勝手に眼が行くではないか(笑)
眼だけではなく、そこへ足も動いてゆくでは ないか(笑)
しかし、近くに行くと、臭くてたまらなかった。
それは、合成着色剤、防腐剤、その他が匂う。
卵のパッケージを手に取ったら、吐き気がするほどの悪臭があった。
卵を白くする界面活性剤そのたが沁み込んでいるのが分かった。
鶏の餌の成分までも知覚したのではないか?
たかが十日間の修行なのだが、五感の感受性は、普通の人間を大きく超えているのだ。
こんなに嗅覚が発達したら、とてもレストランや食堂に行けないなと思った。
帰宅して、冷蔵庫を開けたら、やはり、ヘドが出そうだった。帰宅しても空腹感はなかったので、 その日は新鮮な果物だけにしたが、やはり消毒薬の臭いがする。 聖者といわれる人たちが、世俗の食を食べない意味を理解できた。
はっきり言えば、 世俗の食は穢れている。どんなに豪華な食事でも食のオーラ、匂いでも調理人の意識、 添加物、素材が古いか新しいかも分かる。食べていいか食べるべきでは無いか分かる。
わたしは聖者になる気は無い。
明日から世俗の食時を「美味しい」と言いながら食べるだろう(笑)
帰宅した際、娘達は、わたしに近寄ってこなかったのは、行くときと帰宅してからでは、わたしのオーラの色彩と大きさが全然違うからだ。 娘達は眼を丸くして、後ずさりしていて、近づくと泣かれてしまった(笑) 娘の意識に向かって、「お前達のパパだよ」と言うと、え?ホント?あ、 パパだ!と、娘達は正気に返った(笑)