本ブログでは、日浦祐次氏の過去のブログ記事を掲載させて頂いております。日浦氏にとっては過去のものであり、現在のご自身と、運営する瞑想教室「サハスラーラ新宿」にとっては不要とのお考えから全文削除されたそうです。管理人が、過去に日浦氏のブログにより救われた経験を持つため、後に続く真理を求める人のために是非とも!と、再掲載をお願いいたしましたところ快くご承諾下さいました。この場を借りて、日浦祐次氏に厚く御礼申し上げます。 Copyright © Yuuji Hiura all rights reserved.
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拡大化した意識の中にあるのは、絶対的な安らぎと至福であった。
また如何なるものも自己の内部に在るという認識が起こり、
人間が抱く、限界のある愛、自己本位な愛、
状況により変質する愛を超えた慈しみのこころがあった。
もしも、宗教が言うように人間が神の子であるなら、
なぜ恐ろしい闇というものが意識の中に流れ込むように造られているのか。
真逆的に考えるなら、もし、闇が人間の中に無ければ、
人間は、無知の闇を理解できない。
それは、相対的な智恵の光りも理解できないという事に他ならないだろう。
闇があればこそ、人は欲望に刺激されて、快楽と苦をともに体験する。
快楽が無ければ人間社会は機能しないだろう。
しかし、苦がなければ、人間は快楽によって、滅びるのは違いない。
よって、快楽と苦が共に無ければ、苦悩や悲しみを理解することが出来ない。
煩悩が無ければ、子孫の繁栄は難しい。
煩悩に埋没するか、煩悩という根源苦を知るに至るかが人生の分かれ目か。
苦や悲しみを通して、物質的な幸福を求めて、富を追求するのも人間だ。
つまり、 人間は、快と苦を体験するために無明の闇が用意されているのだと言えるだろう。
なんとも残酷であり、恐ろしいと思った。
王子に生まれて、優雅な暮らしをしていながら、
「生は苦なり」と認識した仏陀は、 やはり常人ではない。
現実には仏陀のような認識に至ることがなく、人は闇と煩悩に翻弄される。
決して生命の大切さや悲しみや苦悩を憂いる人は少ない。
ほとんどがエゴに盲目的に支配されるから、
悲しみや苦悩を生み出し、その痛みに泣いているのだ。
丹沢山中の瞑想修行20
実際は万物と自己は一体なのだ。
自己と万物の一体性と言うのは、意識が拡大した霊的世界には、
わたしや他人という独自性や分離という感覚も時間の概念もないということが分かるのです。
肉体から派生する欲望や悲しみの要因も無かった。
意識が拡大化して本来の自己意識になっても依然として、
「わたし」という認識はあるけれど、その自己からは、煩悩や執着心が消えている。
時の流れは、地上の時間とぜんぜん違う。
地上の 1 分は、意識世界の数十時間、 それ以上だろうと感じた。
地上の 1 秒は、意識世界から見れば、実に多くの時間であり、
多くをなしえるに十分な時間であると言える。
この瞑想においては、意識が目覚めると、
空間と時間を超越することができるという体験であった。
拡大化した意識は、三次元に立ち現れる原因の世界を観る事ができる。
あらゆる存在は、 高密度なエーテル質の絆によって、繋がっていた。
そして、あらゆるものが存在の中心であり、
物質的な宇宙には中心がないように思える。
こうした不可知な世界は、人間の言葉によっては適切な説明ができない。
人間の論路的思考によっても認識できないだろう。
語ることのもどかしさかかな。
拡大化した意識の中にあるのは、絶対的な安らぎと至福であった。
また如何なるものも自己の内部に在るという認識が起こり、
人間が抱く、限界のある愛、自己本位な愛、状況により変質する愛を超えた慈しみのこころがあった。
このとき、恐らくは、エゴと呼ばれる自分(わたし)が、
真我(アートマン、 ブラフラマン、真実の自己性)と呼ばれる超意識に入り込んだのだろう。
思い返せば、真我に溶け込んだ一体化とは違うのだ。
本来の自己意識というのは、霊とか魂、真我と呼ばれるようだが、
その意識は 地上の肉体へ意識を投影する。
それがいわゆる輪廻転生であるが、肉体に投影される意識は、
霊でも魂でもなく、自我を持つ意識なのだ。と言うのは、
心臓の周辺にある霊的な対応物は、その光り輝くものの小さな穴から、
なんと、無明の闇が流れ出ているではないか。
これは、個人的な体験ということではなく、誰もが共通した闇を抱える仕組みがある、ということである。
一体、だれがこんな闇を流し込むのか?
それは、神かそれとも悪魔か、それとも魂なのか。
そのことは 当時の自分に判別ができなかったが、
無明とか無知の闇というものは、初めから人間の意識に投影されているようだ。
つまり、人は生まれながらにして、無明に陥る宿命がある、と言えるだろう。
なんと恐ろしいことか。
丹沢山中の瞑想修行19
覚醒体験
五日目の夜、谷川がうっすらと見える満月であった。
川の中央にある大きな岩に座っていると、
古代の修行者たちが断食瞑想行をした意味を知った。
わたしは遠い過去世において、
こうした瞑想行を修練し、幾多の神秘力も会得したと感じた。
しかしながら、 様々な霊的な力の体験談を書いているものの、
そうした体験を経たというだけであって、
なんら霊的な力に興味が湧かない。
その理由はなぜだろう??
瞑想に入ると、速やかに意識体が膨張してゆくのが分かった。
もちろん肉体の大きさは変わらないが、
その内部にあるエーテル質の意識体が、
どんどんと拡大化して、相対的に縮小した肉体が巨大化した意識体の手に乗っていた。
意識体が観るそこには、想像を超える世界が広がる。
しかし、体験したものでなければ、それらの世界は分からない。
この意識の拡大化は、体外離脱よりもかなり難しいと言われるが、
一度体験すれば後々は簡単だ。
一度、チャリンコに乗ってしまえば、手放し運転も簡単になるように(笑)
意識体からは、小さく見える肉体の目を開ければ、
三次元の暗い世界しか見えないし、
閉じれば周囲の風景や人の姿を見ない。
意識体の眼は、三次元の世界と、それと異なる 世界を同時に認識する。
真夜中に修験者と魔界の女を観て、服装も明るく観えたのは、
修験者や風景などのエーテル体の原子自体が光りを発しているからである。
わたしの意識体はさらに拡大し、丹沢山が箱庭のように眼下に広がった。
もはや肉体の大きさは、一個の砂粒という大きさに過ぎないが、
その砂粒を拡大化して見る事ができた。
拡大化した意識体は光り輝いていて、そこから放たれる霊的な光りは、
半径が数キロメートル にまで広がったのではないだろうか。
このような意識体の拡大化には、個人差があるだろうが、
意識体を拡大化するとき、
万物は自分の中に在る細胞のようなものだと気づく。
丹沢山中の瞑想修行18
五日目の朝になると、
身体細胞は、もう食べる欲求を主張しなくなっていた。
新たな意思に対し、煩悩意識が従属的になったからだろう。
だから水さえ飲めば、もう食事は要らないことが分かった。
しかも、日中は険しい谷川を散策するし、
山にも登るのだが、 少しも疲労しないことに驚いた。
睡眠は 1 時間あれば充分で、完全な熟睡が取れたから、
昼寝も不要になった。
疲れを知らない強靭な身体に変わったのは、やはり断食瞑想の劇的な効果だろう。
足の指の間にあった白癬賞の水虫が完全に治り、
しかも赤ん坊の皮膚のような柔らかいピンク色になって、
足のかかとも幼児のように柔らかくなった のにも驚いた。
こころは、信じがたいほど澄み渡り、
思考の動きが消えていたが、
五感の感受性は驚くほど鋭敏になっていた。
空気の臭いや樹木と草花の香、水流の臭いさえも分かったから、
犬の臭覚よりも鋭くなったのかも知れない。
聴覚も驚くほど発達し、100m先の鳥が羽ばたく僅かな音や、
風が木々の間を通り抜ける音さえも聞こえた。
ただ座っていれば、
半径 100mくらいの環境について、なんでも感知できたと思う。
それらは、エーテル体とアストラル体が目覚めることによって、
肉体感覚を越えるのだ。というか肉体の五感を通して、
三次元と四次元の世界をも感知しているのだと知った。
断食瞑想による鋭敏な身体、そして、こころは、常識を超えて、
あたかも高性能な科学装置のようになっている。
五感の欲望は止まり、ゆえに煩悩は超越されることを体験的に理解した。
但し、 永久的に煩悩を越えたわけではないので、誤解なきよう。
誤解されないか(笑)
丹沢山中の瞑想修行17
「体内の原子力変換」
四日目の朝、空腹感は限界に近づいていて、
肉体の細胞意識が、「何か喰わせろ!」と叫んでいた。
そう言われても、ここには食べ物はなにもないのだ。
あらかじめ断食の 知識を得てはおいたが、
実際の断食行は思ったよりも楽ではなかった。
食の本能に打つ 勝ことは簡単ではないと知った。
細胞の叫び声を無視していたら、今度は、
「何か食べさせてください」と、お願いの言葉に変わったのが笑えた。
まさに欲望が叫んでいるのだ。
普段は肉体の感覚、欲求に従って、
飲食したり、遊んだり、休んだりするのが人間であるが、
いまは五感の印象を制御しつつ、その欲求を支配している意識があった。
いわゆる煩悩といわれるものは、
わたしという意識それ自体だから、
わたしという意識が居る限り、煩悩は無くならない。
細胞に意識がある、ということについて、
科学者のアインシュタインもまた、細胞は意識を持っているといった。
彼は輪廻転生を信じたし、神の実在も信じていた。
だから 細胞の意識に対し、コマンド(命令)を与えて、
空腹感を抑え、また病気を治し、 肌を若返らせることもできる。
わたしは、他に病気や怪我を治すとき、細胞にコマンドを与えて治している。
わたしの学生時代は、実を言うと、相撲取りのように太っていたのだが(爆)
友人が撮影した 僕のオデブちゃん写真を見てショックを受けた。
それからと言うものは、スリムな身体になりたい、と思った。
その一ヵ月後くらいから、イメージしたようなスリムな身体になり、
以来、40 年間も体型と体重が変わっていない。
この方法を、肥満体の女性に教えたら、実践した人は、
今でもスリムな身体を維持しているし、
便秘は治り、足の冷えも無くなっていると言う。
このブログを書いている現在、女性の受講生からメールが届いているが、
呼吸法と瞑想の実践により、食べすぎくらい食べても太らない。
しかも夜中に飲食をしても体重が増えないどころか、
数キロもスリム化している!と喜んでいた。
このように自分が体験した本人は、大きな自信を持つことだろう。
ダイエット療法に金は要らない。払いたい人は払えばいい(笑)
ダイエットは食を制限する必要もないのだ。
好きなように飲食しながら、スリム化できる、という嘘の様な事実である。
しかも、高齢化した際に起こりがちな「更年期障害」も回避できるというオマケが付いている。
仏陀の言葉として、「すべての病気を治す最良の薬は瞑想である」と仏典に書かれてある。
だから男女を問わず、若い頃から瞑想法を学んだ方が得をするのは間違いない。