本ブログでは、日浦祐次氏の過去のブログ記事を掲載させて頂いております。日浦氏にとっては過去のものであり、現在のご自身と、運営する瞑想教室「サハスラーラ新宿」にとっては不要とのお考えから全文削除されたそうです。管理人が、過去に日浦氏のブログにより救われた経験を持つため、後に続く真理を求める人のために是非とも!と、再掲載をお願いいたしましたところ快くご承諾下さいました。この場を借りて、日浦祐次氏に厚く御礼申し上げます。 Copyright © Yuuji Hiura all rights reserved.
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丹沢山中の瞑想修行24
こうした自己イメージの無い眼差しにより、十人、百人の意見から自由になるとき、
そこには、「エゴ」の「わたし」がいない。
だから、時の無い未知なる空間を観るかも知れない。』
『しかし、わたし達の学校教育や現実社会は、人や世界の在り様を分析し、比較し、それぞれを評価することを教えている。既知を非難することによって、 新しい理論やテクノロジーを生み出している。
しかし、新たなテクノロジーが人間を幸福にする保障はなく、自己を目覚めさせることは無い。
競争社会には 差別と不幸をも産み落としている。
わたしたちは、自己の正当性や優位性を満足させるよう教育されてきた。
つまり、比較や競争原理を教わったから、諸君らは、 比較や競争それ自体である。
その意味が分かるだろうか?
比較や競争に巻き込まれる限り、幸福の達成はなく、
また真理の発見は難しい。というか無理だろう。
今日の教育や社会体験により、仕入れた情報や条件付けから
自由になれなければ、幸せを見いだすことが難しい。
自由になるためには、見る対象や観察する対象が何であれ、
そこに主観を入れることなく、
カメラレンズのように、ただ観ることが大切である。
その観察法こそが、万物と「わたし」の 分離感覚を消してくれる。
苦と悲しみを消し去ってくれる。レンズのように記憶や先入観の無い観察が出来るとき、意識は次元を超えるのである。では、どのようにして、先入観ある意識は、カメラレンズのような眼差しを得るのだろう。』