本ブログでは、日浦祐次氏の過去のブログ記事を掲載させて頂いております。日浦氏にとっては過去のものであり、現在のご自身と、運営する瞑想教室「サハスラーラ新宿」にとっては不要とのお考えから全文削除されたそうです。管理人が、過去に日浦氏のブログにより救われた経験を持つため、後に続く真理を求める人のために是非とも!と、再掲載をお願いいたしましたところ快くご承諾下さいました。この場を借りて、日浦祐次氏に厚く御礼申し上げます。 Copyright © Yuuji Hiura all rights reserved.
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丹沢山中の瞑想修行23
「宗教団体での講演会」
その翌日、知人の宗教団体から、わたしの体験談を講演して欲しいと依頼された。
数日後、某宗教団体にて、2時間の講演を行ったが、
その演題は、「自分とは何か」であった。
講演が始まる直前、なんと、白隠禅師の過去世を持つ人と出会いをしたのは意外だった。
その記憶は、昨日のことのように鮮明だった。
また、2.500 年前、 釈迦が法を説いた時代、その周囲に居た過去世の人たちも沢山いた。
みな昨日も会ったばかりのような懐かしい人たちだった。
ここで、その講演会の要約を語ろうと思う。
講演の要約
『諸君は、諸君が信じる開祖から、わたしの講演を聞くように言われたから、諸君には、すでに諸君の宗教的なイメージがあるに違いない。
しかし、自己イメージは、客観的事実と異なることが理解できるだろうか。
例えば、他人と会話をするとき、自分のなかから湧き起こるのは、ほとんど個人的体験と言う記憶の反応であり、それらは主観である。だから、自分の内面に起こる様々な想念を観察することができる。
しかし、そこには、憶測、断定、好き嫌い、 他者との対立感情、同調、迎合、無関心、恐怖と快楽、時には過去世の記憶も 曖昧ながら生起してくるのである。そうした自己イメージがある限り、実相と言う真実が見えなくなってしまうことを知って欲しい。
わたし達が未知なる真理を学ぶとき、この自己イメージを破棄しなければならないことが理解出来るだろうか。ではどうやって、自己イメージを破棄するのか。
それを例えるなら、10 人が討論している時、諸君は同調も反発せず、しかも 意見や感情を移入することもなく、ただ見ること、ただ聞くことができるだろうか。これは実に難しいことであり、不可能に近いことかも知れない。
しかし、 論争に反応しない精神とは、思考や記憶の反応が起こらない。自己イメージを つくらない。それが出来るだろうか。その状態を例えれば、カメラのレンズは、 ただ光りを通すだけであって、記憶と言う自己イメージを持たない。これは、 当たり前であるが、この当たり前のことを自己観察に用いることが出来るのだ。